トップページ > 日奈久の温泉
応永16年(1409)
日奈久温泉が発見される
応永26年(1419)
(中町に)弁天社建立
寛永9年(1632)
細川忠興公、八代城主に
慶安3年(1650)
細川綱利公、肥後藩主に
明暦3年(1657)
浴室を大改築し藩営温泉に
天明4年(1785)
大火災、弁天社類焼
文政5年(1822)
現在地に社殿建立、遷座
※欄間彫刻は当時のもの
文政7年(1824)
柳湯、築地湯海中に発見
天保11年(1840)
地震により神社倒壊、すぐに改築
明治20年代
人力車が八代〜日奈久間走る
明治29年(1896)
門司〜八代間鉄道開設
乗合馬車が八代〜日奈久間で営業
大正12年(1923)
八代〜日奈久間鉄道開設
昭和5年(1930)
種田山頭火「おりや」に宿泊
昭和42年(1967)
日奈久温泉センター完成
平成21年(2009)
日奈久温泉開湯600年
お告げで発見された温泉で、刀傷が治った日奈久の温泉は湯治の客が日増しに多くなり、まちには人が集まりました。「神様をお祀りしよう」と、 村人は市杵島姫を祀る祠(弁天社) を建立。温泉の神様は日奈久の人に 崇められ護られ続け、現在にいたります。後に六郎神社も同じ境内に移りました。温泉神社のすぐ下は下湯の温泉センター、六郎温泉発見の場所です。昔はそこまで海がせまっていました。 町並みが海の方へ広がる様子が見下ろせます。
海の干潟の中で発見された温泉は、孝子物語とその効能の二重効果で噂は噂を呼び、浜辺の日奈久はみるみる温泉の町と変貌していきます。明治に入ると宿も増え名士たちも「どこよりも日奈久」とやってきます。門司八代間に鉄道ができ、日奈久港には定期船が着き、人力車や乗合馬車が往来する活気ある日奈久温泉には当時十五軒ほどの宿がありました。放浪の俳人、種田山頭火が訪れ、この地を絶賛したのは昭和五年(1930年)のことです。その後日中戦争(昭和十二年〜)時でも旅館は陸軍病院の保養所となり、日奈久温泉は愛され続けました。
日奈久の古い町並みは、賑わいこそ少なくなりましたが、そのおかげで風情が残りました。細い路地に入ると味噌づくりのお店や、ちくわ屋さんがあり、竹細工・焼き物などの伝統が息づいています。
六百年の歴史が他にはない独特の風土をつくり、人々に懐かしさや癒しを提供しています。
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放浪の俳人種田山頭火は、昭和5年9月10日から熊本県八代市の日奈久(ひなぐ)温泉、織屋に3泊し、その日記に『温泉はよい、ほんたうによい、ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、いや一生動きたくないのだが、』と称賛し、『此宿は、夫婦揃って好人物で一泊四十銭では勿体ないほどである』と記している。

なお、織屋旅館は山頭火が宿泊した全国の旅館の中で現存する唯一の建物です。
昭和五年 九月十日 晴れ。二百廿日。行程三里。
日奈久温泉。織屋(四十銭・上)
午前中八代町行乞、午後は重い足を引きずって日奈久へ、いつぞや宇土で同宿したお遍路山夫婦と また一緒になった。
方々の友へ久振りに ほんたうに久振りに――音信する、その中に、――……私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅に出ました、……歩けるだけ歩きます、行けるところまで行きます。温泉はよい、ほんたうによい、ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、―――いや一生動きたくないのだが
九月十一日 晴、滞在。
午前中行乞、午後は休養、此宿は、夫婦揃って好人物で一泊四十銭では勿体ないほどである
九月十二日 晴、休養。
入浴、雑談、横臥、漫読、夜は同宿の若い人と共に活動見物、あんまりいろいろの事が考え出されるから。
(『あの山越えて』 山頭火行乞記 大山澄太編より)
種田山頭火(たねださんとうか)

1882〜1940(明治15年〜昭和15年) 俳人。
山口県防府生まれ。
本名は正一。「山頭火」の号は教師の萩原井泉水にならって運勢判断の「納音」(なっちん)によったものである。自由律の俳句誌《層雲》で活躍した。

妻子を捨て、世間を捨て、行乞の人生を送り、自然と一体になり、自己にいつわらず、自由に一筋の道を詠いつづけた彼は、生涯約八万四千句を詠みすてた。
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